『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』新たなデザインと絵画のような美しさの映像に鳥肌が立つ現代の神話
目の前で繰り広げられる”神々”の壮絶な死闘。現代の神話の目撃者になれる『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の解説・考察をしていく。
1.作品概要
監督:マイケル・ドハティ
脚本:マックス・ボレンスタイン、マイケル・ドハティ、ザック・シールズ
製作:トーマス・タル、ジョン・ジャシュニ、メアリー・ペアレント、ブライアン・ロジャーズ
製作国:アメリカ
配給:ワーナー・ブラザーズ、東宝
時間:132分
公開:2019年5月31日
出演:カイル・チャンドラー、ヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、チャールズ・ダンス、渡辺謙ほか
2.あらすじ
ゴジラが巨大生物ムートーと死闘を繰り広げ、サンフランシスコに壊滅的な被害をもたらしてから5年。その戦いに巻き込まれ、夫マークと破局を迎えた科学者のエマは、特務機関モナークで怪獣とコミュニケーションがとれる装置の開発に当たっていた。そんなある日、エマと娘のマディソンが、装置を狙う環境テロリストのジョナ一味によってさらわれてしまう。(allcinemaより引用)
3.主な受賞・選出
〈受賞〉
- インディアナ映画ジャーナリスト協会賞
モーションピクチャー賞 - ハリウッド・プロフェッショナル・アソシエーション
音響賞
〈ノミネート〉
- 第45回サターン賞
ファンタジー賞、若手俳優賞、音楽賞、特殊効果賞 - 第45回ピープルズ・チョイス・アワード
アクション映画賞、主演女優賞 - 第40回ゴールデン・ラズベリー賞
ワーストリメイク・盗作・続編賞
4.作品の見どころ・考察
神々しく美しい怪獣たち
本作は、メイン怪獣であるゴジラ、キングギドラ、モスラ、ラドンのデザインが美しく、その神々しい姿は神聖ささえ感じられる。
天に向かい青白い熱戦を放ち暗雲を薙ぎ払うゴジラは神のような存在感を放ち、あまりの美しさに鳥肌が立った。
終盤、核弾頭の爆発によって臨界が近くなっていたが、ゴジラをかばって散ったモスラの鱗粉を浴び制御できるようになり全身を赤熱化させた姿になる(制御できた理屈は分からないが)。
その姿はかつてのバーニング・ゴジラを彷彿とさせるが、今回は歩くだけで周囲のものを一瞬で溶かすほどの威力で、これまでゴジラを圧倒したキングギドラを一瞬で燃やし尽くすほどの強さだった。
ゴジラが絶対的な王であると示されたシーンに、思わず心が震えた観客も多いのではないだろうか。
また、幻想的な羽をたゆらせ女王たる風格を思わせるモスラ、火山を纏い飛ぶだけで周囲を壊滅させるラドンも今までのゴジラシリーズでは観られなかった姿だ。特に、四方に稲妻を放ちながら都市、そして地球を破壊していくキングギドラの凶暴さや邪悪さは過去最高と言っても過言ではない。
神話のような人智を超えた存在
監督は「神であるゴジラ」を描こうとしたと語っているが、目の前で繰り広げられる人智を超えた存在らの攻防はまさに現代の神話のようで、彼らこそが「地球の支配者」であると見せつけられる。
そして、圧倒的な力を前にした人間は人類の無力さに絶望し、彼らの前にひれ伏し、畏怖の念を抱かざるを得ない。この点はシリーズの中でも特に初代ゴジラが一番効果的に描かれているが、本作は随所で初代ゴジラとの共通性を見出せるため監督がゴジラシリーズを愛していることが映像から伺えるが、この部分は特に強い影響を受けていると類推できる。
絵画のような画面作り
本作が現代の神話であると思わせる要因の一つとして、西洋の歴史画のような画面作りを意識して多用していることにあるだろう。
怪獣同士が対峙した時や都市を蹂躙している怪獣らの陰影や色合い、構図はまさしく神話を描いた歴史画のようで、どの場面を切り取っても一枚絵として成立するほど美しい。
全編通して絵画のような映像が続くため、本作の神話性が強調されており、従来のシリーズ作品とは一線を画する作品となっている。
母親エマの行動
全ての元凶と言っても過言ではないエマの言動は、ネットの感想や映画サイトのレビューでは「母親がクズ」「行動がひどすぎる」など散々な言われようだが、私はエマの言動に人間のエゴが詰まっているように感じられた。
彼女は「人類自体が疫病であり、環境破壊の最大の原因。だから、地球の免疫である怪獣の手によって一度破壊し、再生する必要がある。」と説く。
この思想は狂気としか思えず、怪獣を復活させるための映画的脚本ではあるが、その後のエマの行動が興味深かった。
まず、エマは先のゴジラの襲来(『GODZILLA』)で息子を亡くしており、大切な人を失う痛みや悲しみを十分すぎるほど知っているにも関わらず、目的の達成(地球環境の再生)には人命の犠牲は致し方ないとし、一人の命より人類の未来を重視するが、最終的には自ら犠牲になり夫と娘を助けるなど行動に一貫性がない。
また、自然や地球に比べると人間は小さな存在であり自然の摂理に抗うべきではないとしながら、オルカ(怪獣と音波で意思疎通が取れる装置)怪獣たちを操り自然を操作しようとするなど、大きく矛盾した行動が目立つ。
これらの行動は一見すると腹立たしいものだが、考えや行動が定まらずに詭弁を弄する様子は人間の愚かさやエゴが端的に現れており、常に芯が通っている「映画的人物」ではなく「人間的人物」であるように感じられた。
エンドロールではゴジラや怪獣が破壊した箇所が自然に戻った場所もあることが報じられており、皮肉にもエマの仮説が半分証明されたことも何とも面白い。
5.個人的にマイナスだった点
怪獣王を崇める怪獣たち
"偽の王"と称されたキングギドラを葬り、"真の怪獣王"に君臨したゴジラの元に続々と怪獣たちが集まり、頭を垂れてひれ伏していくが、これは流石にやりすぎだろう。
強いものに従うのが自然の摂理であるが、この行為はあまりに人間的すぎて、神話から一気に格がさがってしまったように思える。
芹沢博士の最期
オキシジェン・デストロイヤーにより瀕死になっていたゴジラを核弾頭の爆発で復活させようとするが、発射システムが破損し発射不能になっており、手動で行わなければならない状況で芹沢博士が自ら買って出る。
はっきり言って、この行動に必然性を全く感じられないのだ。
「悪魔のような兵器を作り出したことへの贖罪と責任」という大義があった初代ゴジラの芹沢英二博士に対して、本作ではそのような背景がないため、「ゴジラを殺すために自ら犠牲になった」の芹沢英二博士と、「ゴジラを生かすために自ら犠牲になった」本作の芹沢猪四郎博士で相反する構図を作り出すためにしか思えない演出に感じられる。
また、芹沢猪四郎博士は父親を広島の原爆で亡くしており、8時15分で止まった懐中時計を形見として持ち歩いており、本作と『GODZILLA』でも核兵器に対して猛反対し、その存在を憎んでいる様子が度々描かれてきた。
それにも関わらず、最終的に核弾頭の使用を認めるだけでなく、自らの手で起爆するなどありえないことであり、これでは彼がアメリカと同等の行為を行ったということになってしまう。
今でも原爆投下の罪と向き合う事をしないアメリカ人では日本人の根幹にある感情を理解できないのだろうと思わされ、この部分の認識の相違は今後何十年経とうが縮まることはないと思うと、非常に悲しく、そしてやりきれない気持ちになってしまう演出だった。
6.総評
怪獣らは美しく、同時に畏れ、崇拝の対象であるという描き方はハリウッド的ではなく、日本や東洋の考え方に近く、監督の初代『ゴジラ』やアジアの文化への愛や敬意を感じ取ることができた。
宗教画や終末を描いた絵画のような映像も見事で、神話の目撃者のなったかのような錯覚を覚え、劇中何度も鳥肌が立った。
人物描写や展開などは粗さが目立ち、特に芹沢博士の最期は個人的に言語道断だが、”神々”の王を決める争いだけに着目すれば、その迫力や臨場感、美しさや恐ろしさはシリーズ屈指だろう。
7.こぼれ話