ゆうの孤独のシアター

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『福田村事件』100年たっても今なお続く負の連鎖

数々の社会派ドキュメンタリー作品を手がけてきた森達也が自身初の劇映画作品として、関東大震災直後の混乱の中で実際に起こった福田村事件を題材にした『福田村事件』をの解説・考察をしていく。



 

1.作品概要

監督:森達也

脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦

製作:井上淳一、片嶋一貴

製作国:日本

配給:太秦

時間:137分

公開:2023年9月1日

出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、水道橋博士、豊原功補ほか


2.あらすじ

1923年、澤田智一は教師をしていた日本統治下の京城(現・ソウル)を離れ、妻の静子とともに故郷の千葉県福田村に帰ってくる。その年の9月1日、関東地方を大地震が襲う。多くの人びとが大混乱となり、流言飛語が飛び交う9月6日、香川から関東へやってきた沼部新助率いる行商団15名は次の地に向かうために利根川の渡し場に向かう。(映画.comより引用)

3.主な受賞・選出

 

後日記載


4.作品の見どころ・考察

歴史に葬られた闇

本作は関東大震災後の混乱の中、実際に起こった事件を元に制作されたが、関東大震災における「朝鮮人虐殺事件」という惨事があったことは歴史の授業などでも習うため耳にしたことはあるが、おそらくほとんどの人が詳細な内容を知らなかったのではないだろうか。

 

ほとんど触れられず、歴史の闇に葬られていた事実が、関東大震災からちょうど100年にあたる2023年に公開されたこと自体が大きな前進とも言える。

 

様々な要因が重なる緊張感

犯行に至った直接の動機は「聞きなれない讃岐弁を外国訛りと勘違いし、一方的に朝鮮人と断定して手を下した」となるが、そこに至るまでには当時の情勢が大きく関係している。

 

当時、朝鮮では三・一事件運動(福田村事件の事件の4年前)が起こるなど日本からの独立運動が活発になり、両国の緊張が一気に高まった時期だった。そのため内務省や警視庁が国内の朝鮮人に対し厳しい締め付けを行い、差別や弾圧が強まった。さらに、唯一の情報源であった新聞の歪曲報道や流言の伝播、治安維持の勅命が緊急発令されるなど、その風潮は一気に加速していく。

 

さらに、朝鮮人に対する差別だけでなく、行商人の中に被差別部落出身者がいたことや方言に対する知識が乏しかったことなども関係してくる。

 

このように、事件に至るまでの経緯が丁寧に描かれるため、息苦しささえ感じる緊張感が常に漂っている。だからと言って到底許される行為ではないのだが、当時の情勢を鑑みて、大本営からの通達であれば従わざるを得ないのも理解できる。

 

現代にも通じる過ち

こうして彼らは自警団を結成するが、過熱化していく報道により次第に冷静さを失った彼らは、最終的に勘違いと歪んだ正義感で同胞である行商人らを次々と手にかける。

 

それまでの張り詰めた緊張が一気に爆発するようなラストでは、怒りや悲しみ、無念さなど絶望に近い様々な気持ちが往来しする。

 

また、彼らの過ちはコロナ禍における現代人の過ちにも通じる部分が多い。
コロナウイルスの感染拡大当初、日本でも不要不急な外出の自粛やマスクの着用を推奨していたが、その中で「自粛警察」「マスク警察」「不謹慎厨」「他県ナンバー狩り」などと呼ばれる、迷惑行為を行う人が急増したことも記憶に新しいだろう。

 

彼らも自分の行動が行き過ぎたものであるという自覚がない場合がほとんどで、誤った正義感を絶対的なものと信じて他者に押し付ける構図は全く同じだ。さらに、自粛警察を取り締まる「自粛警察の警察」なる構造もネット上では多く見受けられ、本作の二重差別問題とも合致する。

 

また、2011年の東日本大震災の後も「動物園からライオンが逃げた」という合成画像をSNS上で拡散した人が逮捕されたり、陰謀説・都市伝説とった類の話をあたかも真実のようにデマを流したりと、国民の不安や緊張が増した際には必ずと言っていいほど同様の迷惑行為が行われることからも、現代人だからこそ考えさせられる事も多い内容だ。


5.個人的にマイナスだった点

行商人の描き方

個人的に本作の肝は「善良だった市民が震災後の混乱や社会不安に流されて、罪のない善良な市民を手にかけてしまう」ことだと思っていたが、行商人の描写が疑問に思う点が多い。

 

行商人らは頭痛薬や風邪薬などの薬を販売していたが、在庫が十分にあるにも関わらず残り少ないからと嘘をつき不当に値上げをしたり、おそらくハンセン病と思われる患者ら(当時、ハンセン病は不治の病だった)に「万能薬」としてただの風邪薬を売りつけ、リーダーは「わしらはもっと下のやつから金を取らなきゃ食っていけん」と新入りの少年に聞かせる。

 

被差別者が別の被差別者を差別する構造になっており映画に必要だったとは感じるが、的屋や仁侠映画の与太者のような派手な服装で、詐欺まがいの行為を繰り返す行商人を観客はどう捉えるだろうか。行商人側も疑われるような要素がある時点で、殺されて仕方がないとまでは思わないにせよ、加害者側の非が弱まってしまうだろう。

 

25年ほど前から事件の真相解明や調査に力を入れている「福田村事件追悼慰霊碑保存会会長」の市川正廣氏も、「加害者側を過度に重視している。善良な村人と対比される行商人の描かれ方は問題がある。」と苦言を呈していることからも、あながち間違った見方ではないことが伺える。

 

史実とフィクション

市川氏は「映画は影響力が大きいから史実とフィクションの部分を分けるべきだが、本作ではその点は不明瞭」としている。

 

こちらも同意でき、実際の事件の名前をタイトルにし、「葬られた歴史の闇」と謳っているにも関わらず森監督自ら「創作のエピソードも多い」と語っているのは致命傷だ。

 

本作に関する記事やインタビュー、パンフレットなどを読み込んで作品に対する知識を深めた場合は別だが、ほとんどの観客は映画を観てそれだけで良し悪しや印象を決めるものだ。そして、本作の”全て”が史実であると思い込むのも自然の流れだろう。

 

だが、それでは本作に描かれていることが今度の定説となってしまう危険性もあるため、本作のように中途半端に劇映画としてのフィクションを混ぜ込んでほしくなかった。

 

繰り返される不貞

本作では何度も不貞を行うシーンが描かれるが、必要性を全く感じられなかった。

 

静子(田中麗奈)が倉蔵(東出昌大)と肉体関係になり、夫である智一との性的不能を政府の機能が不能になっていることを重ねるのは理解できるが、長時間かけて劇中何度も描く必然性が分からない。

 

また、マスと義父、倉蔵と咲江の関係など繰り返し禁断の男女関係が描かれるが、こちらも同様に不要に思えた。

 

この件に関して森監督は


「性愛的なモチーフはほとんど(脚本の)荒井さんと佐伯さんのアイデア。澤田が妻の不貞行為を目の当たりにして、その帰り道に彼女をおんぶする感覚も僕には分からない。デティールに関してはだいぶ喧嘩したが、これに関してはまだ言いません。」

 

と、かなり含みのあるコメントを残している。荒井、佐伯ともに森監督より年上で、キャリアでも大先輩ということを考えると何があったかは大体想像できるが、このあたりの解釈・意見の相違が、作品のチグハグさに関係しているのではないかと考えられる。


6.総評

終盤で新入りの少年・藤岡が亡くなった全員の名前を挙げていく。
歴史上の大きな事件で、被害者は約〇〇人(関東大震災後の朝鮮人虐殺事件では約6,000人)という記載をよく目にするが、その一人一人に名前があり、人生があり、家族や友人があったことを強く思わせ、決して風化させてはいけないと深く考えさせられる。

 

福田村事件の遺族や生存した方の子孫は、未だに事件のことで差別を受けたり、口に出すのを憚る方も多いという。だが、加害者側の一人は恩赦後に市議会議員になるなど、両者の間で矛盾が生じてしまっている点も本作を調べるうちに知り、事件はまだ終わっていないことを突き付けられた。

 

ドイツは先の大戦での過ちと向き合ってきたが、指導者ヒトラーだけの責任と捉えず、国家そして国民の責任として歴史の講義を受けるというが、日本はどうだろうか。そろそろ日本も、自国の歴史や過ちと向き合う時代になったのではないだろうか。


7.こぼれ話

  • 市川氏は上記以外も多くの史実と違う点や歴史的考証の過ち、矛盾点をしてきしている。