ゆうの孤独のシアター

映画レビューを中心に映画関連のブログを書いていきます(当サイトはアフィリエイト広告を利用しています)

『友だちのうちはどこ?』素朴な物語に無数のメタファーが隠された政府批判映画

アッバス・キアロスタミ監督の名を世界に知らしめたイラン映画。

数々のメタファーが隠された『友だちのうちはどこ?』の解説・考察をしていく。

 

 

 

 

1.作品概要

監督:アッバス・キアロスタミ

脚本:アッバス・キアロスタミ

製作:アリ・レザ・ザリン

製作国:イラン

配給:ユーロスペース

時間:85分

公開:1987年2月1日

出演:ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダバフシュ・デファイ、イラン・オリタほか


2.あらすじ

イラン北部にあるコケール村の小学校。モハマッドは宿題をノートではなく紙に書いてきたため先生からきつく叱られ、「今度同じことをしたら退学だ」と告げられる。しかし隣の席に座る親友アハマッドが、間違ってモハマッドのノートを自宅に持ち帰ってしまう。(映画.comより引用)


3.主な受賞・選出

  • 1987年ファジル国際映画祭
    最優秀監督賞、最優秀録音賞、審査員特別賞
  • 1989年ロカルノ国際映画祭
    銅豹賞、国際批評家賞、芸術協会賞、国際芸術映画同盟賞、国際キリスト教協会賞
  • 1993年度キネマ旬報ベストテン 第8位選出
  • 英国映画協会が選ぶ「14歳までに観ておきたい50の映画」第5位選出

 

4.作品の見どころ・考察

リアルな生活

本作では職業俳優を起用せず、現地の住人と住居、学校などを使用している。
村の風景や建物、生活の音までもがそのまま描かれている。

 

それはリアリティではなくリアル=現実であり、フェイクドキュメンタリーを観ているかのような錯覚に陥る。

 

彼らは演技経験が皆無だったため、その事が生活を覗き見しているような生々しさを生んでいるともいえる(撮影にはかなり苦労したようだが)。

 

隠された政府・国への批判

当時のイランは、イラン革命の混乱や革命後のホメイニ政権による厳しい言論統制が敷かれていたこともあり、自由な表現が困難な時代だった。そのため、検閲を逃れるためにあえて子供目線で物語を描き、様々なメタファーを劇中に潜ませたと思われる。

 

この手法は社会主義国家や共産主義国家、独裁・圧政政権下でよく使用され、検閲逃れの手法として古くから様々な国で使用されている。実際本作も、検閲が何度も難色を示し、「子供が主人公なら」と渋々撮影許可が下りたという。

 

本作では、周囲の大人たちが主人公アハマッドをはじめとした子供たちの言葉を全く聞き入れず、耳を傾ける様子すら感じられない。

 

正論だが小学生相手に厳しすぎる先生、遊びに行く口実だと決めつけてヒステリックに叱る母親、煙草を買いに行かせる祖父、問いかけを全て無視するドア屋など、アハマッドは常に一方的に指示をされて自身の言葉が大人の耳に届くことはない。まるで存在していないかのような態度は、目上が絶対的な権力を持つ封建的な風習を読み取れると同時に、弱者の意見や声が政府や国に届くことがないことを揶揄しているようだ。

 

また、母親に宿題をやれと叱られたため宿題をしていると家事の手伝いを指示される。今度は、洗濯物を干していると早く宿題をやれと怒鳴られる。さらに買い出しも頼まれるが、道中で祖父に煙草を買って来いと頼まれる。このように理不尽な要求で板挟み状態になり困惑するアハマッドが、劇中ではしつこいくらいに反復して描かれる。

 

これは政権や党首が変わるごとに振り回され、圧政を強いられていた国民のメタファーとして見ることができ、当時のイラン国内の情勢を図り知ることができる。

 

同じ台詞の多用

会話も特徴的で、アハマッドは同じ台詞をただ反復するだけのシーンが目立つ。

 

母親には「ノートを返さなきゃ」とだけ訴え、なぜ今日中にノートを返さなければならないかは説明しない。「どこのネマツァデ家?」と聞かれるとポシュテ区としか返答できず、ドア屋には「ネマツァデのお父さん?」と聞き続ける。

 

これら以外にも言葉を変えずにひたすら同じ言葉を言い続けるシーンが何度も繰り返される。これは子役ではないため複雑なセリフが難しいからということも当然あるだろうが、厳しい言論統制や政権への痛烈な皮肉であるのは明白で、政府と国民の構図そのままだ。

 

立て付けの悪いドア

冒頭、教室のドアのアップから始まり、中盤は壊れたドアの修理の話が延々とされ、最後もドアで映画は終わる。

 

このドアは立て付けが悪く風が吹くたびにきしんでおり、脆くすぐに壊れそうなことを考えると、これも政府のメタファーと捉えることができる。

 

さらにドアの外を他国とすると、冒頭でドアの向こうから子供たちの賑やかな声が聞こえてくることは他国への羨望、木造から鉄のドアに切り替っていく様子は西洋化が進むことへの不安や戸惑いとも受け取れる。

 

ストレートな家族愛

大小さまざまなメタファーが隠されていたが、最後はストレートな演出が光った。

 

結局ノートを返すことができずに、帰宅してすぐ泣きじゃくるアハマッドに対して、家族が三者三様の反応を示すシーンだ。叱らずに見守る父親、バツが悪そうな祖父、夕食を食べないことに心配する母親と、どの家庭にも通じる家族の在り方がそこにありホッとさせられる。

 

さらに、アハマッドが宿題をしていると母親がそっと夕飯をそばに置き、強風の中で洗濯物を取り入れる姿が映し出される。遅くまで帰ってこない息子を心配して待っていた様子を、強風と洗濯物だけで表現したこの演出は見事としか言いようがない。


5.個人的にマイナスだった点

何も起こらない物語

本作は上記のようにメタファーがメインとなっており、歴史的背景を知らないと、起伏のない展開と一辺倒な演出に退屈してしまうだろう。会話のメタファーも一見すると冗長な脚本に感じてしまい、物語自体に面白味を見つけるのは困難だろう。

 

アハマッドの行動

恐らくほとんどの人が、「住所が分からないのに走り回ってわざわざ届けなくても、その子の宿題もしてあげて翌朝渡せばいいのに」と思うはず。これを言ってしまうと元も子もなく、アハマッドの成長譚が成立しなくなるのも承知だが、この疑問は絶対に頭に浮かぶはずだ。

 

これ以外にも彼の要領の悪さが目立つ場面が多く、長い目で見守ることができる人は感情移入できるが、そうでない場合は次第に苛立ちを覚えるだろう。


6.総評

質素で素朴な内容でありながら、その実は子供を隠れ蓑にした政府への批判映画であり、作品を通して当時のイラン国内の実態や国民の想いを感じ取ることができる。

 

だが最後には心温まる純粋な家族愛が描かれており、余韻がいつまでも残るような普遍性も持ち合わせている点も素敵だ。

 

イランの映画の歴史は古く、20世紀まで遡るが、本作が様々な賞を受賞し注目を集めたことによりイラン映画の水準の高さを国内外に示すことができ、国際的な認知を得たことでも本作は非常に重要な作品ともいえる。

 


7.こぼれ話

  • 演技経験はおろか、映画を観たことある人が数人いるのみという環境だったため演技という概念すらなく、撮影や演技指導は困難を極めた。
  • 何度も往復する<ジグザグ道>は住民らが草を踏み固めて作った。